日本人に民主主義は無理である

2016年5月28日

民主主義、それは古代ギリシアに起源をさかのぼることが出来る。都市国家たちは市民らによる民会に対して国の行く末を決定するための判断を任せ、一人一人の考えが国の行方を左右していた。

民衆による国家の支配、それはつまるところ多数決であり、小学校や中学校におけるクラスを社会の縮図としてみることが出来る。

スクールカースト上位者の発言には取り巻きを初めとした皆が賛意を示し、上位者の意向に刃向かったり気にくわないものに対しては、さも当然のことかのように和を乱す異端の者としての烙印が押される。

完全なる民主主義の敷かれた小中学校において、未だにいじめ問題が頻発している現状から見ても民主主義は破綻している。

日本人に民主主義はどだい無理なのだ。

無責任な上に、記憶力の無い国民たち

今日ではさる政治家が政治資金を私的に流用し、公私を混同するなどの事件が珍しくない。

まったく無責任な話である。政治家たる者は国家の行く末を真摯に考え、身を粉にして御国のために尽くすべきなのである。

「まったく無責任な話である」、そう息巻いて政治家を問い詰めているのは国民たちだ。しかしまったく無責任な話であることに、国民たちは自らがその政治家を選んだという記憶を忘却してしまっている。

自らの代理人として国家の行く末を考えることを委任したのは他でもない国民自身であることを、まったく無責任な話であることに、国民自身は忘却してしまっているのだ。

日本における、王の不在

japaneseKings1

民主主義とは本来純粋な形を実現するならば、国会には国民全員が出席参加し、それぞれの考えを語りながら最も国民全体の利益が最大となる道を模索するものである。

しかし現実的には社畜となった国民たちに、その余裕は金銭的にも時間的にも存在せず、国民たちは自らの代行者を立てる選択を行っている。

すなわち自らの代わりとなって国民全体の利益を考えられる者に、自身の権利を委譲するということである。

それはまさしく、民主主義以前の絶対的な権力を誇った王が各地を治めるために、自身の信頼する家臣たちに統治権を与え領土を任せることに等しい。

民主主義の前に、我々国民はすべてが一人の王である。

皆が王の資格を持たないことは自明

そこで生まれ暮らしていく以上、いずれは王となることが定められている民主主義という呪いのかけられた国、日本。

周りを見回してみて、その視界に入る全ての人々が王となり人々を導いていく資格と能力が備わっていると感じることはないだろう。王とは王ではない者がいて初めて成り立つものだからだ。

より優れた者、そういった国民を導くための資質を備えた者こそが王となるべきであり、自らの利益しか考えられぬ、国家の利益を考えられぬ者が王となったところでそれは暴君の支配する国であり繁栄しない。

国民一人一人が真摯に国家の行く末を案じて思考する、国民すべてに王としての資格がない以上は、すべての国民が王となり、王としての視点を要求される民主主義という政治体制を活用することは無理なのである。

誰もが他者に責任を押しつけることが許されず、常に自らの責任の下判断を求められる民主主義は、あらゆる政治体制の中で最も国民にとって厳しい選択であり、王の視点を有さない国民たちには扱うことの出来ない主義である。

日本人に民主主義は無理だ。